独立した真実と、依存しあう嘘。
真実があるから、嘘をつく。
動物や植物や、細胞や、
みんな真実の中で息を潜(ひそ)め眼をこらしてジッと生きている。
中には枯れ葉に擬態した虫や、
提灯アンコウの持つ疑似餌(ぎじえ)みたく、
真実の中で敵や獲物を欺(あざむ)いて生きるのもいる。
人間の社会なら、擬態罪?とか、
疑似餌所持詐欺罪?とか(笑)、罰せられるかも知れない。
でも法廷での裁判では、
「嘘ではありません、生きる為にやったことで罪ではありません、許されるべきです。」
と、無罪を訴えるだろう。
いやいや、人間の社会と比較するものでなし、比較できない…
そもそも人間の社会には、
平等という名のスケールを基に、
すべてが計られている。
みんな同じじゃなければならない希望があるらしい。
差別してはならない、
区別してもならない、
みんな同じなのが平和なのだ~!(笑)
なぜなら、それは…
差別も、区別も、みんなそれは恐いことだから、だそうだ。
だから、平等に平和を保ちあいましょう。
生きる恐怖をみんなで忘れてしまいましょう、
そうしたら平等な平和が手に入るのですわよ。
なぜ恐ろしいの?
「それは、相手が怖いからだ。」
なぜ怖い?
「人生に負けて喰われてしまうかも知れない」
でも平等の平和の囲いの中だから安全では?
「ならば…その平和の囲いの中での生活が、もっと怖い…」
どうして?
「…どうしてだろう」
どうして?
「信じられん」
なぜ?
「生きている実感が合わない」
どんなふうに?
「なんかこう…自分の力で、自分の生命でもって、獲ていく実感?」
「それを抑えた人生は、イライラして息が詰まる」
「つまり、生きる欲だ」
「これは、断つことが出来ない」
でも、平等な平和の中では、それはエゴ、利己主義でわがまま。
「ではどうしたら?」
神に祈りなさい
「なんでやねん!!怒」
~スンマセン 一応ここでオチをつけました ~
『 独立した真実と、依存しあう嘘。』 というタイトル。
そして又は、
『 真実と嘘、そして独立と依存。』
このように解いていきたい。
要は
真実とは、独立しているもの。
そして
嘘とは、依存しあっているもの。
ということです。
では、何をもって真実を真実と言えるのか?
それは奥が深い。
それを話しはじめると、一生の寿命がもたない気がする。
では先に…
何をもって依存を依存と言えるのか?
「依存の定義は、本来欲しいと思っているモノの代用品である。」
そして、真実とは何か?を端的に言うと
「真実の定義は、本来本当に欲しいと思っているモノである」
買い物依存、お金の依存、
興味の無い人への執拗な依存…など、いくら買い物したって、
大金持ちになったって、
好きでもないのに結婚したって、
好きでもないのに子供つくって、
どこまで行っても満足しない。
それを依存と言うわけ。
本当に欲しいものを獲ていく(得ていく)ことが、
それだけが真実。
綺麗ゴトなのは重々承知ですが、事実であることも真実です。
それは、自分の胸の内に沸き起こる気持ちと、
それを抑える何らかのわだかまりを感じること、
それが証拠です。
誰もが得られる訳ではない。
勝者がいて敗者がいるんだ、
勝って生きて行くなんて空気の読めない変人だと思われるだけで、
噓でもいいから現状維持につとめるしかない。
でもね、我慢に我慢が続くと、
欲しくないモノばっかり買うようになるし、
好きでもない相手に異常に執着するようになるし、
そして仕事もだんだん嫌になるし、
お金だけにまた執着が酷くなり、
子供にも愛情なんか感じるわけでなく、
執着と依存だけの関係が出来あがってしまう。
そして子供もまた親に執着と依存しか求めなくなる。
これで「 依存しあう嘘 」の完成だ。
そして、それが、だんだん怖く感じてくるものなんだ…
真実は、独立、自立している。
何故か?先程も言った…
「真実の定義は、本来本当に欲しいと思っているモノである」
では、本来本当に欲しいモノの…その必須たるモノって何だ?
これも先程に既に触れている
自分の生命を自らで全う出来る人生
これは本来すべての生物に共通して持ち得ているものだろう。
老若男女、すべての人、すべての世代、すべてのジャンルの生物。
女も、男も、子供も、赤ん坊も、爺さんも、婆さんも、
どの人種もみんな、平等に生物としてまっとうしたい。
それは、生きて行く恐怖だ。
本来、平等にあるのは生きて行く恐怖。
虫の 蚊 だって、ボウフラから成虫になることだけで必死のパッチなんだそうだ。
水面にサナギを船のように浮かべながら孵化して羽ばたくまでの間、
少しでも水面(みなも)が揺れるとサナギの船が沈没して死んでしまうらしい。
そして飛び立てたとしても、人間の大きな手で木端微塵(こっぱみじん)に砕け散る。
だけど、またこれらの情報から更に賢くなって産まれてくるのが生物の永遠の進化。
真実には、生物平等の恐怖があるんです。
そして真実には、生物平等の進化がある。
それって、社会の高度な成長だってそうなんだろうけど、
先ず自分のカラダや精神が求めている事でしょう?
女性も、男性も、年頃の子も、子供も、爺さんも、婆さんも、中年だってさ。
生きてゆく恐怖と共に人生がある。
どうして恐怖を感じてはいけない、
と教えられてしまうんだろう?
恐怖を感じ過ぎてもなお、
それを乗り越える精神力を進化させていくことが人生には不可欠なはず。
では…
どうして生きてゆく恐怖を隠そうとするのか?
それはさ…
嘘ばっかりで、嘘と嘘が共依存し合っている人らにとって、
都合が悪いコトがいっぱいあるからやで。
いざ、本当の自然の恐怖の前では、
嘘は何の役にもたたないんだから。
依存は所詮、好きでもない人生に好きでもない相手と居る訳だから、
人の人生を大事にすることなんて出来やしないんだわ。
僕は必ずクチにしている言葉がある
『 嘘は必ず破綻する 』
そして
『 真実は 永遠と尊さと恐怖である 』
ただでさえ生命の真実は恐怖なのに、
そんな大変な人生の中において更に
嘘という破綻の怖さが上乗せ重なっている社会の危うい怖さ。
破綻する嘘の船に乗って、
真実の永遠の海原の中で、
どうやって舵を取ればいいか…
いつの世も続く
真実があるから、噓がある。
真実から、噓が派生する。
そしてまた真実と真実が合わさって、
また新たな真実が生まれる。
そしてまた、噓が派生し、破綻してゆく。
繰り返し、繰り返す。
真実に苦しみ、真実に恐怖しながら進化してゆく。
嘘は、そんな苦しみから派生する。
それって、苦しみや恐怖を忘れさせてくれる
マンガに出てくる砂漠の幻想のオアシスみたいなモンだね。
みんな恐怖から逃れたい。
逃れたい先に、嘘をつくんだわ。
だが、『 永遠と尊さと、恐怖 』 の真実の前では、
噓はひとたまりもなく消え散るだろう。
サイキックの眼 ヤマモト・コージ