本当の人生のスタート地点
みな、これを探し求めているんじゃないかな?
お金で買えるモノじゃない。
闇雲に努力しても、辿り着けないかもしれない。
立ち止まって、360度まわりを見る余裕も時間も勇気もない。
見て見ぬフリすることだって精一杯だし、
これ以上に問題ゴトが目に入ったらやばいし。
何処を見るワケでもなく、人の流れに任せて歩いて行くしかない。
群衆に歩幅を合わせ歩いて、
群衆と互いに互いを見張り合って、
空気を合わせて、呼吸を殺して、
仲間意識を大事にするフリをして。
そして、今どこに居るかが解らなくなってきて、
GPSで現在地を確認する。
もう誰が誰だか解らないし、
自分も解らなくなり続け。
だから、またスマホで誰かのツブヤキを拾っては自分の心境を確認してはみるが…
時間だけがただ擦り減っていくし。
消耗していることすら解らないでいる。
『自分の人生のスタート地点を持つ』
持つこと、持てることって出来るのだろうか?
赤ん坊がウギャアと産まれ出て、
「人生が始まったぞ!」って意識があって、
その意識をキープして生き続けられるか?笑
或いは、産まれてすぐに母親と父親を見て、
「おぅ両親よ、我が人生のスタート感!ビンビン感じるぜ!感謝するぜ~」
…んなワケない。
でも、動物や虫や魚や鳥だって、
短い一生の中で必ず生まれ故郷、即ちスタート地点に帰るだろう。
生涯をスタート地点から始め、生涯をスタート地点で終える。
みながみなそうではないが、何が言いたいかと言うと、
生物にはみんなスタート地点がある!ってこと。
自分が何処から始まりを迎えたのか?
それを知りたいし、知っておきたいし、
知っておかないと生きてはいけない。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの物語
「みにくいアヒルの子」がそれだろう。
自分が何処の子で、何処の生まれで、
何処からここまで歩いて来たのか?
そして何処に帰っていくのか?
それが、曖昧で良く解らない。
解りたくもない。
知りたくてもどうしようもない。
知ったとしても、どうにもならない。
帰りたくても、帰ることが出来ない。
帰ることすら許されない。
人生のスタート地点を振り返ることが出来ない人は、
新たなスタート地点を探し続ける日々となるだろう。
何故か?
それは、自分の人生をスタートさせたいからだ。
迷った時に、立ち戻れるスタート地点から人生を切り直したいからだ。
例えば、国を追われ故郷を追われ住む場所を失った人は、
先ず国や市町村などに訴えかけていく方法をとる。
これは弁護士さんが法律を駆使し、
人生の奪還を求めて戦うことをする。
では、親に…
親自身から、人生のスタート地点を追われてしまった子は…
何処に訴えていけば良いのだろうか?
もう一度言います
親という人生のスタート地点をその親から追われてしまい、
人生のスタート地点を失ってしまった子らは、どうしたら良いのだろうか?
何処に行けば良いのだろう?
道に迷った時、何処から再スタートを切れば良いのだろうか?
この問題に、法律は未(いま)だありません。
ひと昔前なら、養子養女に出す、国内の開拓民に出向かせる、
ブラジルや満蒙開拓団なる国策で行き場を大陸に向けさせる。
未開の地の果ての何処かで、人生の再スタートを切ってみたら?、みたいな方針。
つまり、いつの世も、自分の居場所を守る為には、
親も兄弟もサバイバルなんですよね。
必要の無いヤツは帰って来るな!
大陸に行った人達は、産まれた人生のスタート地点に帰りたいだろう。
そして気持ちや精神をも確かめて、自分を実感したいだろう。
必要の無いヤツは要らない。
時代は移り変わっても、これは恐ろしい言葉だ。
必要とされる人材にならないと食べてはいけない。
でも「必要の無いヤツは要らない」なんて言っちゃいけない。
でもいずれ会社自体が会社を奪い合い破綻する。
人生のスタート地点を奪われたり、
人生のスタート地点を追われたりし、
それをまた奪還すべく戦ったり、
まさに人生のスタート地点の奪い合い。
何故?奪い合うのか?
それは…
それが、一番に豊かな原点だと知り思っているからだろう。
或いは、他人の人生のスタート地点を壊してやりたい…なども。
アフリカや中東や隣国では、今も民族の元祖の中心地を奪い合っている。
日本は、その争いの治め方として、天皇制でもって、
民族発祥の共通のスタート地点としているのです。
どの宗教も宗派も、人生のスタート地点を神様の産まれと同調させて、
争いや奪い合いを治めてきたし、助長もしてきた。
或いは、ニューヨークでは人生の共通のスタート地点として自由の女神を置いている。
そして、僕の住む奈良では、約1300年前に、
当時の国内権力の象徴の旗揚げ大事業として、大仏を造り上げた。
他の国内都市に先駆けて仏教万国博覧会会場とした、
国家権力のスタート地点です。
話しを戻します。
肉親や親族、親に人生のスタート地点を追われてしまった、
奪われてしまった人はどうして生きて行けばいいのか?
今まで、僕の所に来られた相談者の方の8割以上は、
この問題と直面し続けて生きて来られていました。
法律でもどうにもならない問題なんです。
この問題の法律が無いんですから。
苦しんでも苦しんでも、どうにも出来ない。
それどころではなく、更に人生を追われていってしまう事態にも何度も遭っている。
子供は、親の望みなら、何でも許してしまうんです。
死ねと言われれば、死のうとします。
親に追われてしまった子は、社会でも追われる存在になっていってしまう。
話しを探っていけば、
その親も肉親に追い払われないようにビクビクしながら無情に育ってきている。
まるでマッチ売りの少女の連鎖。
もしも例えばマッチ売りの少女も大人になって、
働かない父親と同じことをして…。
豊かな暮らしさえあったならば、こんな悲劇には…?
いやいや違うでしょう?
豊かな暮らしなんて、世界中で成り立つ訳がないんですよ。
何処かに亡命したり、開拓団になって他国を攻めていったって、
豊かな暮らしが何処かに上げ膳据え膳で用意されているワケがない。
国の政策だって、アテにしてること自体がナンセンスだよ。
大事なのは!
『自分のスタート地点を見極めるチカラ』だよ。
自分のスタート地点を見極める事が出来る。
これを持ってもらえるようになるまで、
僕は相談依頼の方々にアドバイスをし続けている。
ドン底のスタート地点
リスクやハンデだらけのスタート地点
トラウマ傷だらけのスタート地点
2度と見たくない触れたくもないような人生のスタート地点…
これらを掻き集めて、イヤでも掻き集めて、何が正しく、
何が間違っているのかを見極める、苦しみを越えるチカラ。
ボロボロになってしまったままのスタート地点でも、
どうやったら修復しえるのかを考えるのです。
そしてその悩み苦しみ続けてきたモノを見極めてきた労力とエネルギーが、
新たな修復された『本当の人生のスタート地点』になるのです。
何が正しくて、何が間違っているのか、見極めるチカラ。
法律にも書かれていない、
本当の正しさを見極める術(すべ)です。
親の間違いを、子は許し続けてしまいます。
そしてその間違いを、また子供が間違い続けていく。
こんな終わりの無いバトンリレー、
やめる勇気を持たないと、
社会に出てからも間違いリレーの連鎖で、
処分できないバトンだらけの人生になってしまうよ。
『本当の人生のスタート地点を持つ』
その見極めるチカラを。
サイキックの眼 ヤマモト・コージ