LOVE AND GLORY

サイキックの眼

苦しみの転嫁、そして嘘

       
     
苦しみの転嫁、そして嘘


先ずこうだ...
ここが出発点なのです。
出発点と言うよりは、身動きがとれなくなり、
未来を閉ざし、閉ざされた発起点。

人は苦しみたくない。
苦しみの無い人生が、良い人生だ…としている。
なるべく苦しみが少ない、出来るなら避けて通りたいと願う。

・・・・・いいや、それだけでは治まらぬ。
自分だけは苦しみから逃れたい。
他人がどうなったとしても、自分だけは苦しみたくない。
誰も苦しみのバクダンなんて抱えて生きたくない。
わしゃ知らん…
どこぞの誰かがバクダン処理すればええわ。
あぁ…
それでもまだ苦しい。
こんな苦しいことばっかり、なんで抱えなきゃいかんのだ!
精神が破滅しそうだ!
耐えられん
耐えられん
耐えられん…
この人生の苦しみを、アイツに向けて苦しませてやり、ワタシよりもっとアイツを不幸にしてやればいいんだ。
他者をイジメてイジメて、無視して無視して、精神を破滅させてやればいいんだ。
ワタシ以上に不自由で苦しい人生に…アイツがなれば良いんだ。


このようなことが日常茶飯事、起こっている。
いや、起こっているのではない。
「発起している」と言ってほうが当てはまる。

※ 発起とは
① 思いたって事を始めること。
② 悟りを求める心を起こすこと。
③ あきらめること。我を祈ること。

このように辞書に記されている。
そう、③つ目の「あきらめること。我を祈ること。」、これです。
べつに悟りを開いたワケではない(笑)

『 現状の苦しみを乗り越える為に、とにかく考え、とにかく努力し、精神力も絶え絶えに耐え、恐怖に戦き(おののき)ながら自分の出来るコトをとにかくやってみて、なんらかの結果に結び付けようと更に努力し、その経験から…その先の未来に大きく成長を遂げた精神力を携えられる。』
同じ「発起」の意味でも、これは①つ目に記されたモノだ。

だがしかし、人生の必要な苦しみから逃げて生きてきた…逃げて生きてしまった人が居る。
③つ目の、「あきらめること。我を祈ること。」を選んだ発起人です。
なぜ諦めるのか?
苦しいからだ、苦しいのが嫌だからだ。
なぜ我を祈るのか?
自分だけが苦しみたくないからだ。
宗教めいたモノにドップリ浸かって出てこない人も、この③の意味を要する「発起人」だろう。

今まで、今現在も、悩む原因が解らずに、ご相談、ご依頼くださる方々がおられます。
未来は勿論、明日をどのように迎えれば良いか?が見えない、そんな精神状態のかたも多いのです。
それは何故なのか?
それには一定の共通点があるのです。
人生の苦しみ苦痛の…一定の共通点。
それは
『親が、自らの人生の当たり前の苦しみから逃げた選択をし、それを発起し続けている家庭だ。』
ということです。
依頼者のお話しを伺っていくと、親だけではないと解っていく。
祖父母や、先祖までも、努力を放棄しているのです。
想像してみてくださいな、何十年も夏休みの宿題を放棄している一族家庭って?、毎日やらなければいけないことも出来ませんし、急に計算を立てて考えなければならない事も…今日の今この時に出来ない訳です。
・・・なので、
明日の事なんぞ余裕を持って考えられる訳がありません。
なにも特別な努力をしろってワケではない、生活上必要なコトをすべし!ってだけです。
それが今日も明日も出来ない?!っていう悩み相談を賜るのです。

『すんなり、なんとかスムーズに毎日を過ごせ、少しでも余裕を持てて明日を迎えたい。』

ここに行きつくまで…も。
そしてこれを維持しつつ。
そして更に特別な夢を叶えられるような人生にするには、どれだけの労力が必要か?
ということです。

親は勿論、先祖代々、この労力から逃げてきた家庭がある。
誰も責任を取らない、責任を負う経験を知らない家族。
苦しみたくない、楽して生きたい、スグに楽したい。
でも…
この社会で楽して生きて行くということは、その分その相当の労力は、誰かが背負わなければならない、誰かにシワ寄せがいくのだ。
それだけではない。

苦しみたくない→苦しむのが怖い→苦しみから逃げたい→親も苦しみから逃げてきた→だから親は助けてはくれない→苦しみの乗り越え方が解らない→だから余計に生きるのが怖い→大人になって社会に出て行くのが怖い→明日をどうすれば良いのか解らない→毎日の苦しみから逃げるしかなく→我が子が苦しんでいることからも逃げたくなる→自分より更なる弱者を求め虐めるようになる→そして苦しみから逃れたいノイローゼとなる

まだ終わりません

これでは到底社会生活は成り立ちません

どうするか?

嘘を平気でつくようになるのです。

THE END


この長々しい一連の流れを一気に端折る(ハショル)と、こうです。
「苦しくて」⇒「耐えられず」⇒「嘘つきになる」
そしてこのあと更に達成者にはボーナス特典が付いてきます!
「苦しくて」⇒「耐えられず」⇒「嘘つきになり」⇒「他人の努力を平気で奪う」

到底…日々努力を積み上げてきた人の、苦しみを越えてきた先にある精神的強さと精神的自由度には、敵うはずはありません。
相当の時間と労力と苦心が在っての結果です。

「苦しくて」⇒「耐えられず」⇒「嘘つきになる」
短い人生の限られた時間の中で、
その果ての…ビックチャンスとは!?
『他人の努力・労力・精神・苦しみを越えてきた全てを…奪い取る』

最終的に他人から奪い取る…
なぜなら、不自由な人生、精神的に不自由な家庭に産まれたからだ。
自由な人はいいなぁ…悲
でも、本当の自由を持って生きている人は、それだけ苦しみから逃げずに、経験を積み上げてきた経験値があるのだ。
その苦悩の経験値は、しっかりと子供に受け継がれていく。
逆に、逃げ続けてきた家系は、何にも耐えられなくなり、更に精神薄弱な性質になり、ワメキまわり、暴れまわるようになり、躁鬱を繰り返している。
・・・・・。
それでも、どうしたら人並みの人生に軌道修正が出来るのか?泣
・・・・・。
このような内情を、ご相談に来られる方が非常に多いのが現状です。

勿論、全くこれらが解らなく、一から説明をし説得を続けるのです。
当初は、このような内情を相談者自身が知る由もなく…
つまり、「正しい苦労を知らない家庭に育った、未熟故の恐怖」を自らが理解する作業ですから、人生の宿題が手付かずで山積みなのを知る事になるのですから、当然、また、逃げ癖のリバウンドと、ワメキチラシや、躁鬱の繰り返しを続ける。
これを繰り返し、自らの社会的無力さの恐怖心と向き合い、冷静さを強い意志で保てるようにアドバイスを続けるのです。

何の苦労も親から教わらず、それとは逆に、親の精神薄弱の狂気・虐待・無視をもれなく経験しているのがスタンダード。
そして、まったくの不毛地帯でもなく、決まってここに生えてくる草があって、その名は「情け草」とでも命名しましょう…苦泣。
社会で生きる為の苦しさから起こり得る愛を知らない家庭は、情けだけは深くなるのです。

※ 当ブログ内記事 「 虐待と情け 」 ご参照ください

苦しみを乗り越えることも知らず、放棄し、そして他人どころか、我が子にその苦しみを転嫁し続けてきた家系家族。
毎日のニュースに、その末期破綻を迎えてしまった親子関係の姿が表れています。
自分の人生を堂々と生きたいのに、そのチカラも精神力も教えて貰えず、それどころか人生そのものを親に奪われて息絶える子。
そして、社会的経験値の少ない家庭の子が、どうしようもなくなり未熟な親や祖父母の命を絶えさせる。
こんなことまでしないと生きて行けない。
苦しみたくない…じゃ、生きて行けないんよね。
可愛そうに…じゃ、育つはずはなかろうよ。

今日も、明日も、明後日も、苦しみの転嫁は続く。
苦しみから逃げた者は、社会で生きて行く力は無い。
だから、平気で人の努力を奪い、平気で嘘をつくようになる。
そして、そんな者同士が仲良く擁護しあい正当化していく。
そしてその行く末は、いつか必ず破綻します。

なぜなら…
なぜならね
それは、この宇宙の構築システム全体、その生物的現実の在り方が、常に上回っているからです。
だから、「広大な正当な苦しみ」を前に、「苦しみから逃れる為の腐った嘘」に虐げられず、負けずに生きて行くしかない。
最終的には、自分との闘いです。

野生の生き物は自由に苦しみを持って生きている。
動物園の動物は、噓という不自由な苦しみを与えられている。
なぜなら、人間は野生の自由な苦しみが羨ましく、恐いからでしょう。
不自由な人間と人間同士は、すべてを不自由にしなければ気が済まない。
なぜなら、真の苦しみを乗り越えた自由は、脅威だから。
 

 

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